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新年を迎えて 

無常のいのちを尋ねる

新たな年を迎え、皆様におかれましてはご清祥のこととお慶び申し上げます。
さて、新年を迎えるということは無常を実感する折に触れるということであるように思います。
 仏教では、全ての物事は絶えず流れて常ではないことを諸行無常(しょぎょうむじょう)といいますが、この無常をよく表現し、コロナ渦でひそかに注目されている書物があります。親鸞聖人と同時代の文学者、鴨長明(かものちょうめい)の随筆『方丈記』です。冒頭の「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」という言葉はよく知られています。川とは人生を指していますが、我々の人生は常に流れていて、しかも元のままでは無いというのです。「元のままではない」とはどの様なことでしょうか?
 たとえば私たちが分かる範囲としての体、つまり物質としての存在を考えてみますと、私たちの体の細胞は次々に壊され、新しく作り替えるということが行われています。私たちの臓器も骨も筋肉も全てが毎日変化し入れ替わっています。しかもその細胞を形成している微小な分子は、私たちが食する食物、つまり他の命の細胞を形成している分子の一部が取り込まれたものです。その分子によって形成された細胞はすぐにまた壊され、新しい分子を取り込み作り替えられるのです。
つまり、私たちの体は個体というよりもいわば流体であるといえます。
 それでは「心」はどうかというと、心もまた流れているものです。心とは正確には脳のはたらきを指すものですが、脳は様々な情報を取り込み、快や不快を感受し、ストレスにより変容したり、大きく価値観が変わることもあります。好きなものや執着するものも、その熱が冷めていくことはエントロピー増大の法則によって明らかにされています。つまり心もころころと流れているといえます。
 体も心も常ではなく流れている、何一つ変わらないものは無い。それが私という存在です。それに何とか抗(あらが)おうと自分という自己同一性を探しても、本当に自分のやりたいことは何なのか、何のために生きているのか、どこに向かっているのかが分からないように、本当は自分自身をよく知らないというのが私たちという存在(現象)なのではないでしょうか。
 「仏道をならうというは自己をならうなり」というのは道元禅師の言葉ですが、仏道の実践とは自己をならうことであり、仏法を聞くということは、己を聞くことであると解釈することができます。
 どこから生まれどこに向かっているのか、何のために生きているのかを知らずにいる私に、生きる意味と方向を与えてくださるのが浄土の教えです。
本当のいのちとは何なのか、自分自身を訪ねながら仏法聴聞を大切にする一年でありたいと思います。   

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